二つの「孤独のすすめ」を読む。ひろさちやと五木寛之
  二つの「孤独のすすめ」を読む。ひろさちやと五木寛之

10月12日
 チャーシュー風鳥のむね肉煮を作る。・・・むね肉のかたまりを茹で、取り出して、ニンニク・生姜をすったもの・日本酒・みりん・醤油・コショウを入れて、汁がソース化するまで煮込む。
 厚揚げ・ピーマン焼き、サラダ(キュウリ・ゴーヤ・新生姜梅酢漬け)、他。
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10月13日 
 寒い、昨日と10度以上低い。センター試験用ブログ秋の号 公開。 
 ワンタン鍋(冷凍品)+モチ入り、厚揚げ・ピーマン焼き、サラダ(キュウリ・ゴーヤ・新生姜梅酢漬け)、他。
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秋の夜長、外は雨、読書。孤独を楽しむ。
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  「孤独のすすめ」(ひろさちや)より、

       さびしさの うれしくもあり 秋の暮れ  与謝蕪村
 *これを「生活の孤独」を楽しむという。「人生の孤独・絶対の孤独」と分けて述べている。

 酒呑老人がひろさちやになって詠めば
      雨音の 調べ聞きつつ 本めくる  *生活の孤独を楽しむ
      漱石の さびしさ思う こころかな *生活の孤独を受け入れる
      子規の病 生きることの苦 悟りあり *正岡子規・絶対の孤独(病・老・死)を受け入れる

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 人間が、社会が人間を孤独にする。そんな世間を馬鹿にすればよい。世間体を気にするから「孤独地獄」に陥るのです。人生は思うがままにはならないもの、あきらめなさい。あきらめないから苦しむのです。
  
 「あきらめる」は「諦める」の意ではなく、古語の「あきらむ(明らむ)」の、明らかに見究めるの意から来ている。物事の道理を明らかにすることである。仏教が説くキーワードである。
 
 「孤独」というのは、世間に迎合しない毅然とした生き方、自立(孤立・孤高)の姿勢を意味します。むしろプラスの価値に捉えるのです。「明らめる」は納得ずくの「諦める」(自己を受け入れる)なのです。一種の悟りです。楽になりますよ。「孤独」を楽しむのです。 

 無駄な努力をしない、苦を苦にしているのが馬鹿である。阿呆はそんなことしないでのんびり、ゆったり、楽しく毎日を送る。阿呆になりなさい
 みんな寂しさに耐えて生きています。苦しいこと悲しいことがあっても時薬が効いて立ち直れるのです。孤独に浸ればいい、楽しむがいい。人間は平等にいつかは死ぬ。あとは阿弥陀仏様に任せればよい。
 
 さらに、ひろさちやになって  
      阿呆こそ 孤独は楽し あきらめよ

10月14日
 鳥のむね肉煮、納豆、山芋、サラダ(キュウリ・ニンジン・玉ねぎ・生姜の醤油漬け、他。
 
 五木寛之を読む。
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 老境に入ると、人は孤独を恐れるものですが、私は歳を重ねれば重ねるほど、人間は孤独だからこそ豊かに生きられると実感する気持ちがつよくなってきました。孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方のひとつだと思うのです。
 
 若い時のようにはいきません。「諦める」ことが必要です。*「明らかに究める」の意で、はっきりと、勇気持って現実を直視する。それが「あきらめる」ことなのです。「老い」を認めるのです。「アンチエイジング」ではなく、「ナチュラルエイジング」で自然に無理なくシフトダウンして生きるのです。

 さらに、五木は言う。
 自立した老人(賢老)になる・・・精神の自立・経済的基盤を築く・養生に努める・死生観の確立(宗教の力)が必要。*仏教観は人間の不安をはらう一つの拠り所となるのではないか。
 
 超高齢社会においての年金問題・・・搾取する老人階級と搾取される若者階級・勤労者階級の対立から嫌老社会になると危惧する。老人はそのことを自覚する必要がある。
 
 国は高齢者に焦点をあてた経済政策を構築することを提案したい。シルバー産業である。高齢者も稼ぐのである。若者の雇用も増え税収も増える。できるだけ社会保障の世話にならない。
 嫌われない老人となり、「嫌老社会から賢老社会へ」と。
 
 長く生きた分だけ思い出がある。気分が落ち込んだとき、その回想に浸って孤独を楽しみ心を癒すのです。と。
 
 五木になって詠む。
       自立して 嫌老から 賢老へ
       賢老で 孤独は楽し あきらめよ      
       老境の 鬱の癒しは 回想で

 私はまだこの段階
       老境は 青春の友に 会いたがり
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 ひろさちやと五木寛之の共通点が見える。「自立と仏教観(あきらめる)」である。結局、同じことを言っている。
 
 しかし、どうであろうか。これで皆が自立できるか、ある程度の経済力と知性がある人に言えることであって、その他の人には通じない、役に立たないだろう。私にはブログのネタにはなったが。
 
 人それぞれの生きてきた経験値の壁を越えるには軽いむなしさが残る。結局、最後は仏教か、私にはまだ、わからん!
 これが80代の老作家の到達点である。文筆業で、の匂いがしない。
 
 私は、今日も孤独の酒を楽しむ。「結局、句で短く言えるでしょう、作家よ!」と酔いながらつぶやく。
 私には酒が宗教かもしれない。

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