なかにし礼 戦争を知っている子供たちと「リンゴの唄」
     戦争を知っている子供たちとリンゴの唄

8月14日 
 アジの丸干し、キュウリのサラダ(玉ねぎ・ゴーヤ・生姜・大葉・梅肉)酢醤油がけ、納豆オクラ入り、がごめ昆布とろろのお吸い物、きんぴらごぼう、ナシ・スイカ。
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8月15日 終戦記念日 
 *ネットの記事で書かせていただきます。
 
 72年前1月、敗戦直後、悲しみと絶望に打ちひしがれていた日本人の心に「希望のそよ風」を運んだ一曲の歌が発売された。 
 
 「リンゴの唄」である。優しくも少し切ないメロディーを並木路子が明るく歌い上げて戦後の苦境を生きる人々の心に希望をあたえたのだ。
 
 可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時下の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひがれた人々の心に明るくさわやかな歌声が沁みわたり、空前の大ヒットとなった。
 
 作曲家の万城目正が、あえて、明るく歌わせて心躍らせるような明るい歌声が生まれたという。
 http://www.tapthepop.net/imanouta/39892
 当時、サトウハチローが灯火管制の暗幕の下で、敗戦の2ヶ月前作詞したものだという。戦時中だったので「軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされていたらしい。

 *ここから、東京新聞の8月15日の記事の引用で書きます。
 
 作詞家、なかにし礼さんは78才。私より6才上である。6才の時、満洲から引き揚げてきたときの残酷な体験、地獄絵図のような戦争の闇を語っている。
 
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  *尚、隣の小田島雄志さんも満洲引き揚げ者であった。私の大学の時の英語の先生であった。33才であったのだ。私は19才、当てられのをビクビクしていたものだ。
 
 少年心にも、生きていてもしょうがないと。夜の暗い甲板から姉と一緒に死のうとした時、船員さんに止められます。『リンゴの唄』を聞かされ、「君たち、死んではいけない。今、日本では皆この歌を聞きながら、焼け跡から立ち上がろうとしているんだ」と。

 僕は、なぜ平気でこんな明るい歌が歌えるんだろう、と思いました。僕らは玄界灘の真っ暗な海の上をさまよい、まだ戦争は終わっていない。なのに日本人はもう新しい出発をしている。悲しくて。僕にとってとても残酷な歌でした。
 ・・・・日本人の得意技ですが、過去を忘れるのが早すぎないでしょうか。私たちはいまだにそうした『リンゴの唄』を歌い続けているわけですよ。
 ・・・戦争を知らない人たちが戦争を云々しているのは危険だなと思いますね。

 *このように「リンゴの唄」に対する思いが違うのだ。
 
 当時、私は生れて8ヶ月の赤ちゃん。戦争を知らない子供である。言われてみれば、両方とも納得できる。
 数年違いで私は戦争を知らない子供となった。彼は戦争を知っている子供となった。
 戦争を知っている人の思いは、私は知識で、観念的にしかわからない。
 そして、戦争を知っている人が少なくなっていく。
 
 戦争を知らない世代の大臣たちは、それも兵士になることはない世襲制のお坊ちゃまで、安倍流の戦争準備こそ「積極的平和主義」との危険な思い上がりがある。 原爆を落とされたのにもかかわらず、アメリカのポチとして、愚鈍、無反省の極みといっていい。
 
 それなのに、侵略された中国、韓国の思いを考慮せず、またぞろ靖国神社参拝をする政治家がいる。いたずらに刺激するだけだ。テレビなどに取り上げられるので、売名行為・選挙民対策としか思われない。純粋な思いの一般の参拝者とは違うような気がする。
 
 この日だけではない。中西さんが言うように「忘れてはいけない」のだ。
 
 中西さんとは次元が違うが、「リンゴの唄」は、銃後の日本人には、が青空に飛ぶような風景の中に明るく響き渡ったのだ。異常な体験をした中西さんには受け入れがたいのかもしれない。 
 
 *今回は、閣僚北朝鮮問題もあってか、中国・韓国の協力の必要性を計算して参拝を遠慮したようだ。いつも参拝していた野田聖子もやめた。政治家のご都合主義が見える。

 閣僚を外れたとはいえ、稲田朋美は何だ。目立つのだ。何もわかってはいない形式主義者だ。戦没者を思うならば、他の日に密かに参拝すればよい。
 
 
 晩酌・・・甘塩鮭焼き、例の特製健康サラダ、ピーマン・油揚げ焼き。
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赤い月
あんちやんへ | URL | 2017/08/16/Wed 23:04 [EDIT]

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